ここでは、アーサー・コナン・ドイルの生み出したシャーロックホームズの世界と、現代の日本ゲーム会社カプコンで制作された“大逆転裁判”の世界の関連性やその他シャーロックホームズ関連作品に関して個人的に考えたことなどをまとめていく。

- 《生まれて初めて本物のシャーロック・ホームズに出逢う》“様々な人間が生み出した小説やフィクションなんかより、現実の方がずっと奇怪”というのが彼の基本的な考えらしい。“日常的なありふれたものほど奇怪なことはない”。それに対して彼の相棒ワトソンは“君の人生ではそう考えるのは当たり前だ”という。シャーロック・ホームズの元に舞い込んでくる数々の事件は、確かに奇怪なものばかりで、それこそが日常となってしまっている男性なのだから。
- 《ホームズとワトソンから見る、“バディ”という関係性》こういう2人こそ“バディ”というのか。コナンドイルの元祖シャーロックホームズを読んでそう思った。世界で有名な“バディ”と言えば?という質問に多くの人がこの2人を思い浮かべるだろうと納得がいく。自分の中で、イマイチはっきりと像を結んでいなかった、“バディ”という関係性。例えば、大好きなジョジョの奇妙な大冒険シリーズの“戦闘潮流”のジョセフとシーザーが私の中ではその言葉に一番近いキャラクターだったのだが、ファンの間で描かれるのは結構そのラインを超えた“ボーイズラブ”的なものが多い(ファンアートやパロディとして多く目にする)ので、結局よくわからなくなってしまっていて、ピンとはきていなかった。シャーロックホームズを読んで、“バディ”の正解というか、正統を見たように思う。(そして改めて原作のみで考えればジョセフとシーザーの関係性はどちらかと言うと師弟関係よりだという個人的解釈に落ち着く)。友人でもなく、親友でもなく、言い換えるとしたならば…そうだ、“相棒”!ここで浮かんでくる大逆転裁判のキーワードと日本男児2人のことはまた別のところで語るとして。(大逆転裁判は“相棒”つまり“バディ”の物語であり、成歩堂龍之介と亜双義一真は日本のホームズとワトソンのような関係性をイメージして作られたのかもしれない)。これは完全なる主観だが、バディ特有のエロスは本当にたまらない。特に私が悶えたのは、ワトソンがホームズのことを本当によく見ていて、彼の人格や言動の一つ一つを時には“やれやれ”と思いながらも、心から敬い、文学的エロスを感じる言葉で表現する部分である。
- 《元祖シャーロックホームズと“アノシャロ”のギャップ》大逆転裁判に登場する、愉快でマイペースなアノシャロ(ゲーム内の世界では“あの”シャーロックホームズさんと呼ばれることが多いため、この愛称がある)。彼は赤毛連盟の新聞広告を見て真っ先に自分の栗色の頭髪を、怪しげな薬剤で赤く染め、意気揚々と出かけていく。(読む前からなんとなくわかってはいたが)元祖ホームズはそんなことはしない。彼がクールなのか、アノシャロが異常なのか(多分後者)。いくつかコナンドイルの短編を読んだだけでも、こういう箇所が数多く見つかる。しかし、不思議だったのは、やっていることはかけ離れているのに、根本に何か類似した“心”が存在すると感じたことである。“シャーロックホームズ”(どちらも)、掴みどころのなさが、最大の魅力だと私は思っていて、その表現が、原作もパロディも見事である。時に熱く、時にクール、紳士的で、ある時は殻にこもり、ある時は大胆に出かけていく。急に大笑いをしたり、激しく悔しがったりもする。原作を基準にしてもはその人のシャーロックホームズが心の中で形成されていくのだろう。様々な事件を解決しながら、自身こそが最も奇怪で謎に包まれていると言ってよい、一人の探偵を作り上げていく。そういった楽しさがこのキャラクターにはある。そういう意味ではお金のために髪を自分から赤くするような“アノシャロ”も立派なシャーロックホームズである、というのが私の解釈である。(ヴァイオリンは上手な方が良いけれどそこはご愛敬)。違いを楽しむのも良いと思うし、世の中にこんなにたくさんの“ホームズ”が生まれているのは彼とコナンドイルの小説が世界的に愛されている証拠でもある。ちなみに私が初めて出会ったホームズは、4世とされた少年だった。(青い鳥文庫“パスワードシリーズ”より)。流行の海外ドラマのホームズにも会いに行ってみたいし、原作はもちろん、今後も様々なシャーロキアンの愛によって生まれたホームズとの出会いを楽しみにしている。そして何よりも、その過程で生まれていくであろう、私の心の中のホームズはどんな探偵になるのか、わくわくする気持ちである。
- 《ホームズと龍之介の“論理と推理の実験劇場”と元祖ホームズの基本理念》大逆転裁判をプレイし始めて、おいおい…と何か物足りなさを感じたのを覚えている。それが、今回から導入された新システム“推理劇場”というものの感触だ。具体的にはアノシャロがしっちゃかめっちゃかな推理をまず(どや顔で)披露し、プレイヤーである龍之介がそれらを正していく、というもの。最初の印象「地味!!」。なぜかと言うと、事や謎の真相は全て、そこにいる人物や置いてあるものをじっくりと観察(アングルを変えたり、少しはみ出しているものを取り出してみたり、あるいは落ちている紙類の内容を読んだり裏返したり…)することで、おのずと“拍子抜けするほどあっさりと”明らかになるからである。そして今までの逆転シリーズをプレイしてきた方は感じるかと思うのだが、そのレベルが、不自然なほど簡単なのである。しかしここで気づく。例えば原作にこんな台詞がある。“ああ驚いた!最初はものすごい推理だと思ったが、こうして聞くと案外たわいもないことですな(赤毛連盟より)”。原作では、数々の依頼人が数々の心配事や事件を抱えてホームズの家の玄関のベルを鳴らし、対面し、彼が依頼人を見るだけでその人の職業や、近頃起こった些細な出来事、心情や、どんな様子や手段でここに来たか…などなど様々なことをズバリ言い当ててみせるというのが“デフォルト(定型)”なのである。このようにして、まだ何も話していないというのに、自分のことを次々に言い当てる探偵に驚き、誰もが“どうしてわかったのですか”と尋ねる。すると名探偵シャーロック・ホームズは、さらさらとその種明かしをしてみせる。そしてそれが先ほどの、“こうして聞くと案外たわいもないこと”につながってくるのである。彼曰く、こうである。“きみ(ワトソン)は見てはいるが、観察はしていないのだよ。その差は大きい”。相手を“観察”することだけで、それをもとに論理的に推理をし、真実を言い当ててしまう。それこそが元祖ホームズの、得意芸、そして基本理念に基づく大きなアイデンティティのひとつに繋がっている。つまり、ここで大逆転裁判の話に戻るが、この実験劇場というシステムが、いかにシャーロック・ホームズを愛するがゆえに作られたかがわかる。“物足りなさ”というのは“拍子抜け”であり、“案外たわいもないこと”である。私たちはこのシステムをプレイすることで、原作のシャーロック・ホームズの得意芸と、依頼人やワトソン、そしてコナンドイルの読者の驚きを、両方同時に体感することができるのである。
- 《緋色の研究はどうして緋色の研究なのか》“緋色の研究”というタイトルを、この物語を読み終えてからもう一度見返すと、私の心に疑問が生じた。すなわち、著者コナン・ドイルはこの物語にどうしてこのタイトルをつけたのか。私がまず思い浮かべたのは、冒頭のホームズの科学実験のシーンである。まさに単純明快、緋色=血液の実験をホームズがしている。この液体さえあれば、“それが血であるかわかる云々…”そしてこのシーンで、読み手は最大ともいえる勘違い、ミスリードにかかる(可能性がある)。ホームズはこの新薬を使って、事件はきっと血みどろ(?)で、
- 《訳によって非常に印象が変わる探偵シャーロック・ホームズ→ここから完成していく自分のホームズ像》
- 《ジェゼール・ブレッドと弾丸》
- 《バスカビル家の犬を読んで。(手帳1月6日)ワトソンは記録。ホームズは頭脳。》
- 《四つの著名にあからさまにみられる、彼のメンタルヘルスの側面》
- 《ホームズを崖に追いつめた人物とその後の作品について》
- 《妹に勧められて見た・ピンク色の研究》