• カラマーゾフが様々な人物たちが絡み合う概念の難解、心情の難解、あるいは単純に言葉や文章の難解というのなら、本書は心理的な、もっとぎゅーっとピントを近づけた感覚で人間の内の内、“自分”(つまり“彼”)だけの、小説の登場人物でなかったなら誰にも見せることがないであろう部分が濃密に書いてある印象を受ける。難解と言えば難解だが、例えば、人生を終えた(死を迎えた)後の場所に、小さな木箱のような本棚があって、そこに本書がおいてあったら、誰でもどことなく“思い当たる節”があるのではないかという気がする。そういう意味では、カラマーゾフを読んだ時の感覚よりは、題材がより自分に距離的に近いと私は感じる。私の中にも確かにある本質や生まれながらにして持った本能のようなもので渦巻いていて、“あ…この感覚”と読みながらなんとなく何かを思い出す。ただ、抽象的でもある。だからその時思い出すのは、“何か”なのである。ずっとずっと読みたいと思っていた。ドストエフスキー【罪と罰】。タイトルだけで怖気づいてしまうほどには私も大人になったし、いろいろなことを経験した。“罪の意識を持たなくていい”とか、“罰だなんて思わなくていい”とか、“自分を自分で許してあげることですね”とかエトセトラエトセトラ。いろんな人がいろんな人に縋りつき、いろんな人がいろんな思想で慰めたり、教えを説いたり、大きなカオスの中でもがいているのが現代の人間である。随分と人間も傲慢になったものである。どうして自分は救われると思っているのか、どうして自分が救えると思っているのか。とにかく、しかるべきところにキチンと行けば、それが正しいか正しくないかは別として、自分の心を守る方法を教えてくれる仕組みになっている。たくさんの病が認知され、メンタルコントロールが重視され、自己肯定感がどうとか、カウンセリングに薬も数多くある。そんな私もそういった様々なカオスに助けられている(気になっている)ひとりである。そんな“心や精神の文化”をドストエフスキーはどう描いているのか。私は今、正直に言うと罪の意識を感じているが、それの本当の正体は果たして何だろう。人間は生まれた時から罪を背負っている、そんな言葉がある。ではそれは一体どういうことか。
  • 《主人公ロージャの印象》カラマーゾフ家の次男、イワンが自分自身に似ていて、好きという気持ちプラス不快感や尊さ、同情、共感、親近感、同族嫌悪から、果てはその愚かささえ愛しいというナルシシズムを感じた私だったが。本書の主人公、ロージャもまた(今のところだか)私に似ているなと思うことが多くて、ほとほと複雑な気分であり、彼が主人公ならば、きっともしかしたらカラマーゾフ以上に感情移入できるかもしれないぞとワクワク半分怖さ半分。最も彼に共鳴するところは“ねじれ”である。決めつけ、妄想、内面にある恐ろしいほどの凶暴性、心の中でつぶやく言葉の汚さ。対して外側の“ただの人”感、ありきたりな正義感、時々の自己犠牲、弱さゆえの臆病なところ。つまり、心の内側に切れ味の良すぎるナイフを持った、コンプレックスの塊だという印象を受けた。その“ねじれ”がどんどん酷くなっていき、そこから生まれるのが、傍から見たら“訳が分からない、つじつまの合わない言動”である。しかし他人には到底理解できずとも、彼にとっては十分に筋が通っているつもりなのである。だいたいは。だいたいは、と私がここに書いたのは、読んでいると、たまに彼自身も理解できない言動をしてしまうという描写が出てくるからである。しかし多分、そんな言動こそが、実は最も彼すら知らない“彼の本当の姿”を映し出しているのではないか。
  • 中盤、“病気”と表現されているこの描写。私自身が抱えている“強迫性障害”が絶不調だった時の感覚とところどころリンクする。まず、恐怖がある。“罪”に対する恐怖だ。この罪というのは、自分が罪と判断した罪だ。どういう気持ちか。まさに書いてある。“行き場のない”。何を恐れているのか、それは自分がいくらでも妄想で作り出せる未来。もっと具体的に言うならば、“罰”だろう。さらに、複雑なのだが、罰を受けるに値する自分になってしまったこと(ついその言動をするまでは、そんな罪や罰とは無縁で何もかもに対して潔白とさえ思っている)に愕然としているのである。ではこうなって次に何をするか。半ば本能的にその意識から逃れるために、あれこれさらに行動や思考を重ねるのである。ここで重要なのは、この段階でもうすでに当事者は“捕らえられている状態”なのである。そして、何かすればしようとするほど、苦痛は強まり、より本来の自分からは遠ざかっていく。しかし多くの人がこのようになってしまうのは、なるほど確かに何か対策をとれば、一時的に信じられないくらいに気持ちが楽になるからである。しかし、楽になるのは本当に束の間。すぐに、新しい問題が持ち上がり、罪と罰の沼に引きずり込まれることになる。それを永遠に繰り返し、気づけばそこには自分はいない。単なるメンタルヘルスの場合、それが本当に罪なのか、ただ自分が思い込んでいるだけなのかというところにフォーカスすればいいわけだが、(例えば私はその時、トイレットペーパーを真っ直ぐ切らないと罪だと思っていた。)ロージャが罪だと思っている罪は、トイレットペーパーをギザギザにしたまま化粧室を出た、というものではない。著者のドストエフスキーは、どうしてこんな文章が書けるのか、再び、彼の書き残した一つの物語を通して、会ったこともない他人と繋がった気がした。とにかく、彼(ロージャと著者ドストエフスキー)の心の不安定さを感じるにはあまりにもリアリティ溢れる文章だ。私も、この物語を全て読み終えた時、“昔潔白だと信じていただけの自分”には戻れないような気がする。少なくとも、何かしらの罪を自覚することになるんじゃないんだろうか。
  • 《選民思想と正義(手帳1月20日)》